2012年04月19日

【映画】『アツカマ氏とオヤカマ氏』 スクーターはミッキーマウスか?

ふしぎな映画だ。
主人公の営業マンがスクーターを売りまくるお話なのに、スクーターが1台しか出てこない。


『アツカマ氏とオヤカマ氏』(1955新東宝) 脚本:笠原良三、監督:千葉泰樹、出演:小林桂樹・上原謙・森繁久彌ほか


主人公の小林桂樹は、新人のくせに図々しく、初日から「アツカマ氏」とあだ名がつくほど。だが、やがて謹厳実直な「オヤカマ氏」こと上司の上原謙を公私ともに唸らせる……というサクセスストーリー。
スタッフ・キャスト的には社長シリーズの礎、お話的にはクレージー映画の原型という感じ。


あの手この手でスクーターを売りさばく主人公。
が、映画全編を通じ、同時に2台以上のスクーターはスクリーンに映らない。あたかもスクーターがこの世には1台しかないかのように。
というか、その制約は作劇をも支配している。

例1:
オフィスに展示してあった見本のスクーターが消え、上原謙がカッとなる。小林桂樹が営業用と称して勝手に持ち出したという。なんて厚かましい奴だ!

例2:
上原謙が帰宅すると、自宅前にスクーターが停まっている。またしても見本品を私用で乗り回しおって、とカッとなる上原謙。
だが、それは小林桂樹が売りさばいたうちの1台だった。

とくに例2は、スクーターの販売責任者(上原謙)が、当の商品のスクーターを見てカッとなるという、よく考えたらおかしなシーンだ。
この映画のお約束───この映画ではスクーターは単数形───が、観客の意識下に浸透していないと成立しない作劇なのである。
しかもこの映画は、スクーターに限らず、単数形の小道具に事欠かない。


例A:
小林桂樹がヒロインのためにと買い求めたブローチが、めぐりめぐって、ケガをした彼のホータイの留め具にまでなる。

例B:
小林桂樹が何かと上原謙宅に押しかけては、あつかましくご馳走になっていく。その献立は決まってカレーライス。
上原謙の好物というふれこみなのだが、1955年公開当時は、まだ固形カレールーも存在せず、今ほど庶民的な家庭料理ではない。
劇中における上原謙の食事をカレーライスに限定することにより、彼がたとえガンコで旧弊な上司を装っていたとしても、最新流行を好む進取の気性の持ち主なのだ──という表現としても機能している。


ミッキー・マウスの着ぐるみは、現実には世界に山ほどあっても、同時に1体しか観客の目に映らないように運用されているという。a mouse ではなく the mouse。そうすることで、遊園地が《魔法の国》となる。
この映画は、そうした擬似ワン・アンド・オンリーなアイテム群によって組み上げられている。

a scooter であるべきモノを、the scooter として描く───スクーターのセールスマンの物語を、スクーターを1台しか出さずに描き、作劇と人物描写とに利用したおす。

そんな無茶すぎる趣向を、観客に違和感を感じさせずに成立させてみせたスタッフとキャストは只者ではない。後に彼らが、社長シリーズやクレージー映画といった金鉱を掘り当てたのは、決して偶然でも時流に乗ったからでもないのだろう。
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2011年08月24日

【映画】『モンスターズ/地球外生命体』はモンスターでも地球外でもない

最近、何かというとアメリカは宇宙人に攻められる。

終戦直後の日本で、海の向こうから来た巨大な怪獣が首都の中心部を破壊しつくす映画がリアリティを持っていたように、いまのアメリカ人にとって、アメリカとは相容れない何かがアメリカを破壊するというシチュエーションが、リアルな感慨をもたらすのだろう。
そうした映画群は、9・11後に生きるアメリカ人たちの世界観を私たちに伝えてくれてもいる。
(以下ネタバレあります)


たとえば、『SUPER 8/スーパーエイト』(2011)。
スピルバーグ作品へのオマージュに満ちた、ノスタルジックな映画という体裁をとりながら、劇中で少年が出会う宇宙人は『E.T』 (1982)のように米軍から逃げまどうどころか、逆に軍を翻弄して町を破壊しつくす。あまつさえ人を襲っては食糧にする。
そんな人食い凶悪宇宙怪獣に、主人公の少年はひとり心を寄せたりするが、彼は観客に共感してはもらえないだろう。
ここで描かれているのは、ストーリーラインとしては『E.T.』をなぞりながらも、人とは異質で/相互理解なんて不可能な/軍より強力で/生活の中心を直撃して破壊する/凶悪きわまりない──『宇宙戦争』(2005)の宇宙人像である。
スピルバーグもエイブラムスも、どれほど昔を懐かしんでも、もう『未知との遭遇』『E.T.』のころの牧歌的な宇宙人像には戻れない。
それこそスーパー8がディスコンされたように……。


『モンスターズ/地球外生命体』(2010)に登場する凶悪宇宙怪獣も、『宇宙戦争』型の、9・11後のアメリカ的宇宙人像に見える。
少なくとも、アメリカの観客はそう受け入れるだろう。

だが。
中米を占拠した宇宙怪獣は、木に子供を植え、川で育ち、遡上して密林で暮らしている。終盤、アメリカに脱出した主人公たち2人を襲うように見えるが、それは交尾の相手を求め、光に感応していただけだったとわかる(中盤、車列が襲われたときに主人公たちの車だけが助かった理由がそこで判明する)。
彼らは地球の自然に溶け込み、自分たちの生態を営んでいるだけだ。
だが、人間は彼らを敵対視する。それは、彼らがあまりに強大であることと、人間の側に彼らに対する理解が不足しているからなのだ。


主人公たちが滅びたピラミッドの上にのぼり、アメリカ側を見ると、宇宙怪獣の滲出を防ぐため、万里の長城のような巨大な壁を巡らせているのが見える。
“自然”に対して壁を巡らせ、境界を引くのが文明社会である。だが、そうした人為的な境界を、“自然”の側は一顧だにしてくれない。我々から理解し、融合を図らなければいけないのだ。そうでなければ、どんな勇壮な壁をめぐらせたとしても、中米のピラミッドのように、やがては遺跡になってしまうだけだろう。


タイトルこそ『MONSTERS』だが、劇中では徹頭徹尾、creature という言葉が使われる。
もとの意味は「神の被造物」だけれども、最近は creature of nature という言い方を目にすることが多い。人間-神-自然 の3者関係を前提すれば、自然は神により、人間に従属させるために創られたという理解の仕方もできる。だが、ここから神というファクターを外すと、自然が人間に従属してくれる理由がなくなる。人間の側から折れないかぎり、自然は人間に手を差しのべてはくれない。


中米〜アメリカを舞台にしていても、『モンスターズ/地球外生命体』はイギリス映画。
監督ギャレス・エドワーズもイギリス人。
ここ10年の、一連のポスト9・11アメリカン宇宙人映画は、アメリカ人 VS 非アメリカ人の、《文化の衝突》的な相容れなさを描いてきた。彼らは私たちアメリカンの生活の根源を破壊するが、けっして理解できない。ということは、私たちアメリカンは考え方を改める必要はない。なぜなら、アメリカンが非アメリカンの考え方は理解できないのだから……という《壁》をめぐらせているのが、9・11後のアメリカ人である。
その《壁》の意味を、あるいは二項対立の項の立て方を、大西洋の向こうから問うているイギリス人がいる。でも、けっしてアメリカ人には理解できない。
理解しなくて済むために、《壁》をつくっているのだから。


せめて日本人は理解しなければいけない。
アメリカ人は、想定外のものは敵とみなし、思考停止する。日本人は、想定外のものは「存在しない」とみなし、思考停止する。
この映画の字幕で、“infected zone”を「汚染地域」ではなく、「危険地帯」と超訳する配慮がなされているように。
だが、アメリカにとって9・11は過去のトラウマであったとしても、日本にとって3・11は現在進行形の事象である。

私たちは、思考停止してはおれない。
《壁》をめぐらせて事足れりとするわけにはいかないのである。


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高寺Pのオーダーで、Twitter のつぶやきを「批評」っぽく敷衍してみました。
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2011年06月22日

【映画】『ジェリーフィッシュ』(2007 イスラエル/フランス)は語れない

BS11で放送されていたのを観た。

メインヒロインが(群像劇なのだ)、海から現れた浮き輪の少女と出会うところから、映画のワールドが始まる。少女は喋らず、身元は不明。だが決して浮き輪を手放そうとはしない。ヒロインは2日間だけ、少女を預かることになるのだが……。

といった滑り出し。
なかなかキャッチーだ。
だが、この浮き輪少女の謎を追ったり、交流を描いたりとかはまったくない。

この映画の軸となっているのは、そうしたストーリーではなく、どうやら全編を貫く「水」モチーフなのだ。

海辺の町テルアビブ。海から現れた少女。「クラゲ」。子供に船を買いたい。天井から水漏れ。水没する部屋。「アイスおじさん」。雨。トイレで骨折。カリブ海のつもりが、窓から海が見えないホテルの部屋は下水のニオイ。引越トラックのペイント……

繰り返し繰り返し、執拗なまでに、水のモチーフが現れる。

浮き輪少女は、ヒロインの幼児体験に根ざした心象風景かもしれないし、そうではないかもしれない。
それより重要なのは、少女もまた、映画全体に通底する水モチーフを構成する要素だということなのだ。


『2001年宇宙の旅』(1968)は、食事についての映画だ。

大昔、『2001』の同人誌(!)を買ったら、そんな文章が載っていた。アメリカの女子大生が書いた卒論の抜粋だという。おそらく当時の『2001』業界(?)でそれなりに話題になっていたからこそ、日本のファンの目にもとまり、同人誌に引用されることになったのだろう。
言われてみれば、たしかにそうだ。食事の映画、とまで言い切れるかどうかはともかく、食事シーンを抜きに『2001』を解釈できないのは間違いない。

『ジェリーフィッシュ』も、そんなような映画だ。
水モチーフについて語らずして、ストーリーがどうとか言ったところで、印象批評にしかならないだろう。

つまり。
私は、『ジェリーフィッシュ』について語ることができない。
水モチーフか──ということまでは気づいても、そこにどういう意味があるのだか、さっぱり見当もつかない。
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2011年05月14日

【映画】邦画『アバター』と橋本愛

映画の価値とは何だろう、と考えることがある。

映画についての言説は、宣伝チラシやレビューを問わず、「あらすじ」が先頭に来ることが多い。
だが、映画の本質がストーリーにあるはずがない。
ストーリーであれば、小説やコミックはもちろん、朗読や講談や紙芝居の方が、よほど深く掘り下げて描ける。しかし、朗読や講読や紙芝居はマスメディアとしては駆逐され、映画は生き残った。ストーリーは映画を構成する大事な要素のひとつだけれども、最も大事というわけではない。

それを証明する映画のひとつに出会った。

アバター』……興行成績の世界記録を更新した、キャメロン監督の3D映画のアレではなく、山田悠介原作・和田篤司監督・橋本愛主演のソレである。
観客は、私を入れて2人だけだった。さもあらん。観に行った私にしてからが、その存在すら知らなかった。
一般的には無名でも、知る人ぞ知る作品というのはある。しかしこれは、知られざる名作というより、知られざる駄作。誰の話題にのぼることもないまま、このまま埋もれていくべき作品だ。

だが、この映画の価値は、主演の橋本愛にある。
そして、その失敗も。

橋本愛の存在は、ストーリーとは矛盾する。
ブサイクな女の子が、ケータイサイトのアバターにハマり、やがてアバターそっくりに整形までして、現実から遊離していくというサスペンス。そうしたストーリーはあるものの、主人公を橋本愛が演じることにより、ストーリー上の設定がまったく伝わらなくなった。

同じ役者が、整形前/整形後を演じる無理を糊塗するために、ヘア・メイクを極端に変えている。にもかかわらず変わりばえがしない。
カメラがずっと、橋本愛を魅力的にとらえようとしているからだ。
設定やメイクがどうあれ、カメラが橋本愛を魅力的だと思っているその距離感が変わらない。カメラは、設定より橋本、ストーリーより橋本をとらえようとした。
ストーリーを描くためであれば大失敗。
だが、映画とは、そういうことだと思う。

女優リリアン・ギッシュがあまりに魅力的で、カメラは彼女に近づきたくなった。
被写体との距離を縮めるためには、技術的なハードルがいっぱいあった。新しいレンズを開発し、フォーカス専用のスタッフをもうけ、カメラはじりじりとギッシュに近づいていった。
《クローズアップ》という演出技法が誕生した瞬間……。
映画史に刻まれている伝説の一つ。


ストーリーとか芝居のスキルとかではなく、主役が魅力的かどうか。
カメラが、あらゆる努力も惜しまず、主役との距離を縮めたいかどうか。
それが、映画の価値のひとつなのだ。
「『アバター』の橋本愛は観るに値する」
───そう言えるだけで『アバター』は、じつに映画的な映画なのだと思う。
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2010年10月11日

MM9

『MM9』放送終わった。
面白かった!
科特隊パトレイバー風味……新味はないが、たいへん良質。

つくばの施設内でWヒロインが奮闘する2話。
巨大怪獣 VS 自衛隊を見守る5話。
コスプレ居酒屋で飲み明かす10話。
ドキュメンタリーの取材が入る9話の「バタバタさん」は怖かった。
ゲストもレベル高い。自衛隊員の平山浩行は渋いし、12話の橋本愛の芝居は鳥肌モノ。


そういえば。
イマジンあにめ3』32話『リュウタロスと秋の花』は、ちょっとだけ『MM9』オマージュだったりもする。
『3』はなぜか全体的に特撮ネタ・アニメネタ満載。スピンオフにはスピンオフなりの開き直り方がある……と居直るまで、1年半考えてしまいました。お待ちになっていた方にはごめんなさい。そのかわり、1年半がかりの開き直りをお見せできます。
10月21日発売。
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2010年10月03日

『大魔神カノン』 ある作業仮説

放送が終わったようなので(まだ20話くらいしか見ていませんが)。

『大魔神カノン』という番組そのものより、番組に対するリアクションの方に興味がある。
より正確に言えば、「なぜこんな番組なのか?」という声があがっていたことに。

以下は、「『カノン』に対する『なぜ』は説明ができる」ことを示すための作業仮説。
『カノン』評ではない。私自身、以下に述べることを本気で考えているわけではない。「説明装置がありうる」ことを示すための、ためにするコジツケにすぎない。
と、前置きが長いのは、「〜〜と考えることができる」と言うと「〜〜と考えている」と受け取られることが、察しの悪い私にもさすがにわかってきたから。

本題。

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『大魔神カノン』は、プロデューサー氏による、わが子への応援メッセージである。

仕事が忙しかったりとか、何らかの理由でプロデューサー氏はわが子に会えない。わが子が悩みを抱えていても、手を差しのべられない。そこで、番組を通じてわが子にメッセージを送ることにしたのだ。
「悩みはあるよね。でも君はいい子だ。俺(たち)だけはつねに君の味方だよ」と。
わが子の悩みが具体的に何かは不明だし、もっと言えば悩んでいるのかどうかすらわからない。親としては、そうした距離感をもどかしく思いながらも、真摯にメッセージを送りつづけるより他にすべがないのだ。

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ホントにそうかどうかは関係ない。
『カノン』に通底する原理を一口に言える、もっとも簡潔な説明装置はこれだというだけ。

ちなみに、同じ説明装置が『響鬼』(いわゆる前半)にもそっくり適用できる。
いま大学に進み、日々何かに悩んでいる《わが子》=カノンは、5年前、高校受験やら何やらで日々悩める明日夢だった(そのさらに5年前は、さゆる)。『カノン』が一見『響鬼』の意趣返しに見えるのは、軸が変わらないから。何歳になっても、親にとって、わが子はわが子なのだ。

繰り返すが、以上はあくまでも一つの作業仮説。
プロデューサー氏のお子さんが、明日夢やカノンと同年代かどうか知らない。仮に近しい家庭的背景があったとしても、だからといってお子さん個人に向けての発信を意図しているとはかぎらない。
ただ、「なぜ?」とか「好き・嫌い」でとどまっていては進展がないので、作品を評するなら、まず仮説を立てて、検証しながら進めていったほうが科学的なんでは? と思ってしまったしだい。

# HTML タグのテスト
posted by cron at 22:57 | TrackBack(0) | レビュー | 更新情報をチェックする