2011年05月11日

《節電》について (1)

中電・浜岡原発が停止されるとか。
いったん光明が見えかけた東電エリアの電力需給状況は、ふたたび不明朗になった。
政府首脳の、「健康になるためなら死んでもいい」的な対応に対する市民の感想は、昨日や今日のタブロイド紙の見出しがすべてを物語っているのではないか。
(とはいえ、決められたことには全力で従う。そのための秘策も考えてはいる)

2つ思うのは、

(1) 「節電」ではなく「ピークカット」では?

「25%削減」「15%削減」といった触れ込みばかりがひとり歩きすると、

節電実験、目標に遠く及ばず 「目標15%」実際は5%
http://mytown.asahi.com/areanews/niigata/TKY201104280605.html

みたいな、微妙に意味のないことが起こる。
喫緊の課題は大規模停電の抑止であり、《節電》ではないはずだ。
目的と手段の混同の典型である。
「欲しがりません勝つまでは」式にみんなで努力したとしても、結局停電してしまいました───では、どんな努力も無に帰す。
対応の誤りは人を殺す。停電時に命を落とす人が出るのはもちろんのことながら、需給に余裕がある状況ですら、やみくもな《節電》によって熱中症にかかって亡くなる犠牲者も出てしまうだろう。
「何%」というような《努力目標》を呼びかけること自体が無意味とは言わないが、本当にやるべきなのは、ピークに達しかけたときに、状況をいかに告知し、どういう優先順位で強制力をもって何をカットするかということのはずだ。


(2) 照明のスタイルを見直すべき

わが国のオフィスや家庭は、天井に照明が埋め込まれ、部屋全体を明るく照らす全体照明が主流になっている。

ヨーロッパ(とくにイタリア)ではいまでもそうであると聞くような、必要な箇所だけを必要なときだけ照らすスタイルに比べたら、どうしても電力消費は大きくなる。
なぜこうなったかというと、かつて、もっと電力が貧弱で、使える電力は天井から吊した裸電球1個だけ、という時代に「照明は天井に配するもの」という観念が定着してしまったのではないかと思う。裸電球1個を定点に置くことしかできなかったから、全体照明という形を取らざるを得なかった。
時代が移っても、それ以外の照明の配置のありようを検討しないまま、今日までずるずると来てしまったのが、わが国の照明事情ではないだろうか。

今回の事態を奇貨として、照明のありようを再検討してはどうか。
わが国でヨーロッパ式の照明の影響を強く受けているのは、多くの美術館や博物館。ああいうのを目指す。
まずは節電につながる。
たとえば白熱灯や蛍光灯から LED への代替が喧伝されているが、現時点の LED ライトは指向性が強く、全体照明の代替には向かない。だが、個別照明ならばお手の物だ。

それに、全体照明より個別照明のほうが、見ばえ上もカッコいい。どうせ暗くするなら、カッコよく暗くしたいものだ。
posted by cron at 01:01 | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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