2011年05月14日

【映画】邦画『アバター』と橋本愛

映画の価値とは何だろう、と考えることがある。

映画についての言説は、宣伝チラシやレビューを問わず、「あらすじ」が先頭に来ることが多い。
だが、映画の本質がストーリーにあるはずがない。
ストーリーであれば、小説やコミックはもちろん、朗読や講談や紙芝居の方が、よほど深く掘り下げて描ける。しかし、朗読や講読や紙芝居はマスメディアとしては駆逐され、映画は生き残った。ストーリーは映画を構成する大事な要素のひとつだけれども、最も大事というわけではない。

それを証明する映画のひとつに出会った。

アバター』……興行成績の世界記録を更新した、キャメロン監督の3D映画のアレではなく、山田悠介原作・和田篤司監督・橋本愛主演のソレである。
観客は、私を入れて2人だけだった。さもあらん。観に行った私にしてからが、その存在すら知らなかった。
一般的には無名でも、知る人ぞ知る作品というのはある。しかしこれは、知られざる名作というより、知られざる駄作。誰の話題にのぼることもないまま、このまま埋もれていくべき作品だ。

だが、この映画の価値は、主演の橋本愛にある。
そして、その失敗も。

橋本愛の存在は、ストーリーとは矛盾する。
ブサイクな女の子が、ケータイサイトのアバターにハマり、やがてアバターそっくりに整形までして、現実から遊離していくというサスペンス。そうしたストーリーはあるものの、主人公を橋本愛が演じることにより、ストーリー上の設定がまったく伝わらなくなった。

同じ役者が、整形前/整形後を演じる無理を糊塗するために、ヘア・メイクを極端に変えている。にもかかわらず変わりばえがしない。
カメラがずっと、橋本愛を魅力的にとらえようとしているからだ。
設定やメイクがどうあれ、カメラが橋本愛を魅力的だと思っているその距離感が変わらない。カメラは、設定より橋本、ストーリーより橋本をとらえようとした。
ストーリーを描くためであれば大失敗。
だが、映画とは、そういうことだと思う。

女優リリアン・ギッシュがあまりに魅力的で、カメラは彼女に近づきたくなった。
被写体との距離を縮めるためには、技術的なハードルがいっぱいあった。新しいレンズを開発し、フォーカス専用のスタッフをもうけ、カメラはじりじりとギッシュに近づいていった。
《クローズアップ》という演出技法が誕生した瞬間……。
映画史に刻まれている伝説の一つ。


ストーリーとか芝居のスキルとかではなく、主役が魅力的かどうか。
カメラが、あらゆる努力も惜しまず、主役との距離を縮めたいかどうか。
それが、映画の価値のひとつなのだ。
「『アバター』の橋本愛は観るに値する」
───そう言えるだけで『アバター』は、じつに映画的な映画なのだと思う。
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2011年05月11日

《節電》について (1)

中電・浜岡原発が停止されるとか。
いったん光明が見えかけた東電エリアの電力需給状況は、ふたたび不明朗になった。
政府首脳の、「健康になるためなら死んでもいい」的な対応に対する市民の感想は、昨日や今日のタブロイド紙の見出しがすべてを物語っているのではないか。
(とはいえ、決められたことには全力で従う。そのための秘策も考えてはいる)

2つ思うのは、

(1) 「節電」ではなく「ピークカット」では?

「25%削減」「15%削減」といった触れ込みばかりがひとり歩きすると、

節電実験、目標に遠く及ばず 「目標15%」実際は5%
http://mytown.asahi.com/areanews/niigata/TKY201104280605.html

みたいな、微妙に意味のないことが起こる。
喫緊の課題は大規模停電の抑止であり、《節電》ではないはずだ。
目的と手段の混同の典型である。
「欲しがりません勝つまでは」式にみんなで努力したとしても、結局停電してしまいました───では、どんな努力も無に帰す。
対応の誤りは人を殺す。停電時に命を落とす人が出るのはもちろんのことながら、需給に余裕がある状況ですら、やみくもな《節電》によって熱中症にかかって亡くなる犠牲者も出てしまうだろう。
「何%」というような《努力目標》を呼びかけること自体が無意味とは言わないが、本当にやるべきなのは、ピークに達しかけたときに、状況をいかに告知し、どういう優先順位で強制力をもって何をカットするかということのはずだ。


(2) 照明のスタイルを見直すべき

わが国のオフィスや家庭は、天井に照明が埋め込まれ、部屋全体を明るく照らす全体照明が主流になっている。

ヨーロッパ(とくにイタリア)ではいまでもそうであると聞くような、必要な箇所だけを必要なときだけ照らすスタイルに比べたら、どうしても電力消費は大きくなる。
なぜこうなったかというと、かつて、もっと電力が貧弱で、使える電力は天井から吊した裸電球1個だけ、という時代に「照明は天井に配するもの」という観念が定着してしまったのではないかと思う。裸電球1個を定点に置くことしかできなかったから、全体照明という形を取らざるを得なかった。
時代が移っても、それ以外の照明の配置のありようを検討しないまま、今日までずるずると来てしまったのが、わが国の照明事情ではないだろうか。

今回の事態を奇貨として、照明のありようを再検討してはどうか。
わが国でヨーロッパ式の照明の影響を強く受けているのは、多くの美術館や博物館。ああいうのを目指す。
まずは節電につながる。
たとえば白熱灯や蛍光灯から LED への代替が喧伝されているが、現時点の LED ライトは指向性が強く、全体照明の代替には向かない。だが、個別照明ならばお手の物だ。

それに、全体照明より個別照明のほうが、見ばえ上もカッコいい。どうせ暗くするなら、カッコよく暗くしたいものだ。
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2011年05月08日

ダイレンジャー1・2話のお問合せ


ダイレンジャーについて、「第1・2話は台本と完成作品では別物」という噂を聞きました。どのような変更があったのか教えていただけないでしょうか?

決定稿改訂稿
こちらは「決定稿」こちらが「改訂稿」
とのお手紙をいただきました。
ここでお答えしても、ご覧かどうかわかりませんが。

1・2話の台本は、脚本の杉村さんによる「決定稿」ののち、小林義明監督が改訂を加えた「改訂稿」が出されています。
噂というのは、これのことではないかと。

中身の違いは、ストーリーの変更等というより、謎の巨大球体だとか、ヨーヨーの子供が『殉恋歌』を歌うとか、そうした小林監督によるイメージをあらためて台本上に反映した感じです。


『ダイレン』について語らせたら止まりまへんで……。
ということで、権利関係無視で画像まで出してしまいました。(^^;
posted by cron at 01:37 | TrackBack(0) | 仕事 | 更新情報をチェックする
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