あまり好きではない自分語りで恐縮だが。
私が某社の入社試験を受けるとき、「『仮面ライダーBLACK RX』を批判した」んだそうな。
入社試験で番組批判を繰り広げる───なんという武勇伝!
『スーパーヒーロー大戦』がらみの取材でも、その話題を出される記者の方がちらほら。
たぶんそれは Wikipedia の記述に基づいており、その記述はたぶん、『シャンゼリオンメモリアル』というムック本中の座談会の記述を下じきにしている。
もちろん取材に答えても記事にはならない。20年以上も前の逸話をいまさらつまびらかにしたところで、読者には何の興味もないのだから。
個人的にもいまさら感ありありな逸話で恐縮だけれども……
某社の入社試験を受けていくと、最後の関門として、役員面接というのがある。
「君は当社に入ったらどういう仕事がしたいのか?」と質問があった。
で、学生の私は次のようにぶった。
『RX』の終盤、「10人ライダー」なるものがぞろぞろ登場した。
脚本上の要請や現場都合から出た展開とは思えない。テレビ局やスポンサーとのせめぎ合いがあったのだろう。そのせめぎ合いが、私のような一般客にまで透けて見えたということは、撮影現場と外部との間に立ち、相互の利害を調整する役割がいかに大変かということだろう。
私は、そうした「板挟み」の役割をもって任じたい。
実際には、「板挟み? 的な? っぽいのをやりたいとか思ってんすけどー」みたいなgdgdな言い方をしてると思うが、主旨はこうである。
「批判」と言われたらそうかもしれない。
言い方はともあれ、「局? スポンサー? 的な何かに負けて現場守れてなくねっすかー。俺守りたいっすよー」みたいな含意があったのは確かだ。
ちなみに。
ふだん自分の言葉を言うそばから忘れていく私が、このエピソードを明確に覚えているのは……実際に「現場」に投入されたとたん、上にあげたような単純な考え方が、いかに青臭かったかを思い知らされた恥ずかしさのためである。
現場(スタッフ/キャスト) VS 外部(局/スポンサー)なんて単純な二項対立は、それこそカケラも存在しなかった。同時に、そんなふうに見せかけておいた方が、いろいろ都合がいいこともわかった。私自身、いまも今後もそう見せかけていこうとしている。
もうひとつわかったのは、そんな素人の青臭さは百も承知のくせに、青二才の妄言をふんふんと聞きおおせた、当時の役員連中の大人っぷり。
かなわねえなあ──とますます思う今日このごろだ。
2012年05月14日
2012年04月19日
【映画】『アツカマ氏とオヤカマ氏』 スクーターはミッキーマウスか?
ふしぎな映画だ。
主人公の営業マンがスクーターを売りまくるお話なのに、スクーターが1台しか出てこない。
『アツカマ氏とオヤカマ氏』(1955新東宝) 脚本:笠原良三、監督:千葉泰樹、出演:小林桂樹・上原謙・森繁久彌ほか
主人公の小林桂樹は、新人のくせに図々しく、初日から「アツカマ氏」とあだ名がつくほど。だが、やがて謹厳実直な「オヤカマ氏」こと上司の上原謙を公私ともに唸らせる……というサクセスストーリー。
スタッフ・キャスト的には社長シリーズの礎、お話的にはクレージー映画の原型という感じ。
あの手この手でスクーターを売りさばく主人公。
が、映画全編を通じ、同時に2台以上のスクーターはスクリーンに映らない。あたかもスクーターがこの世には1台しかないかのように。
というか、その制約は作劇をも支配している。
例1:
オフィスに展示してあった見本のスクーターが消え、上原謙がカッとなる。小林桂樹が営業用と称して勝手に持ち出したという。なんて厚かましい奴だ!
例2:
上原謙が帰宅すると、自宅前にスクーターが停まっている。またしても見本品を私用で乗り回しおって、とカッとなる上原謙。
だが、それは小林桂樹が売りさばいたうちの1台だった。
とくに例2は、スクーターの販売責任者(上原謙)が、当の商品のスクーターを見てカッとなるという、よく考えたらおかしなシーンだ。
この映画のお約束───この映画ではスクーターは単数形───が、観客の意識下に浸透していないと成立しない作劇なのである。
しかもこの映画は、スクーターに限らず、単数形の小道具に事欠かない。
例A:
小林桂樹がヒロインのためにと買い求めたブローチが、めぐりめぐって、ケガをした彼のホータイの留め具にまでなる。
例B:
小林桂樹が何かと上原謙宅に押しかけては、あつかましくご馳走になっていく。その献立は決まってカレーライス。
上原謙の好物というふれこみなのだが、1955年公開当時は、まだ固形カレールーも存在せず、今ほど庶民的な家庭料理ではない。
劇中における上原謙の食事をカレーライスに限定することにより、彼がたとえガンコで旧弊な上司を装っていたとしても、最新流行を好む進取の気性の持ち主なのだ──という表現としても機能している。
ミッキー・マウスの着ぐるみは、現実には世界に山ほどあっても、同時に1体しか観客の目に映らないように運用されているという。a mouse ではなく the mouse。そうすることで、遊園地が《魔法の国》となる。
この映画は、そうした擬似ワン・アンド・オンリーなアイテム群によって組み上げられている。
a scooter であるべきモノを、the scooter として描く───スクーターのセールスマンの物語を、スクーターを1台しか出さずに描き、作劇と人物描写とに利用したおす。
そんな無茶すぎる趣向を、観客に違和感を感じさせずに成立させてみせたスタッフとキャストは只者ではない。後に彼らが、社長シリーズやクレージー映画といった金鉱を掘り当てたのは、決して偶然でも時流に乗ったからでもないのだろう。
主人公の営業マンがスクーターを売りまくるお話なのに、スクーターが1台しか出てこない。
『アツカマ氏とオヤカマ氏』(1955新東宝) 脚本:笠原良三、監督:千葉泰樹、出演:小林桂樹・上原謙・森繁久彌ほか
主人公の小林桂樹は、新人のくせに図々しく、初日から「アツカマ氏」とあだ名がつくほど。だが、やがて謹厳実直な「オヤカマ氏」こと上司の上原謙を公私ともに唸らせる……というサクセスストーリー。
スタッフ・キャスト的には社長シリーズの礎、お話的にはクレージー映画の原型という感じ。
あの手この手でスクーターを売りさばく主人公。
が、映画全編を通じ、同時に2台以上のスクーターはスクリーンに映らない。あたかもスクーターがこの世には1台しかないかのように。
というか、その制約は作劇をも支配している。
例1:
オフィスに展示してあった見本のスクーターが消え、上原謙がカッとなる。小林桂樹が営業用と称して勝手に持ち出したという。なんて厚かましい奴だ!
例2:
上原謙が帰宅すると、自宅前にスクーターが停まっている。またしても見本品を私用で乗り回しおって、とカッとなる上原謙。
だが、それは小林桂樹が売りさばいたうちの1台だった。
とくに例2は、スクーターの販売責任者(上原謙)が、当の商品のスクーターを見てカッとなるという、よく考えたらおかしなシーンだ。
この映画のお約束───この映画ではスクーターは単数形───が、観客の意識下に浸透していないと成立しない作劇なのである。
しかもこの映画は、スクーターに限らず、単数形の小道具に事欠かない。
例A:
小林桂樹がヒロインのためにと買い求めたブローチが、めぐりめぐって、ケガをした彼のホータイの留め具にまでなる。
例B:
小林桂樹が何かと上原謙宅に押しかけては、あつかましくご馳走になっていく。その献立は決まってカレーライス。
上原謙の好物というふれこみなのだが、1955年公開当時は、まだ固形カレールーも存在せず、今ほど庶民的な家庭料理ではない。
劇中における上原謙の食事をカレーライスに限定することにより、彼がたとえガンコで旧弊な上司を装っていたとしても、最新流行を好む進取の気性の持ち主なのだ──という表現としても機能している。
ミッキー・マウスの着ぐるみは、現実には世界に山ほどあっても、同時に1体しか観客の目に映らないように運用されているという。a mouse ではなく the mouse。そうすることで、遊園地が《魔法の国》となる。
この映画は、そうした擬似ワン・アンド・オンリーなアイテム群によって組み上げられている。
a scooter であるべきモノを、the scooter として描く───スクーターのセールスマンの物語を、スクーターを1台しか出さずに描き、作劇と人物描写とに利用したおす。
そんな無茶すぎる趣向を、観客に違和感を感じさせずに成立させてみせたスタッフとキャストは只者ではない。後に彼らが、社長シリーズやクレージー映画といった金鉱を掘り当てたのは、決して偶然でも時流に乗ったからでもないのだろう。
2012年01月23日
見た夢 (2)
ふだんは仕事含めて実生活に関係ある夢は見ない。
仕事が風雲急を告げている昨夜でさえ、こんなの↓。
猫の小便が手に入った。
評判の大猫のもの。
「ネズミ除けには、猫の小水が一番よ」が口癖の近所のオバさんに、高く売りつけてやろうとほくほく。
その前に、効き目を確認しておくか。小便をお茶で希釈し、大の字になって寝ているネズミの周辺に振りかけてみた。
やがてネズミは目を開け、のっそりと立ち去っていった。「俺がここで寝なきゃいけない理由はないんだよな」とかなんとか、言い訳がましく呟きながら。
効果はあったのか、なかったのか。それより、ネズミはなぜ白手袋をしているのだろう。四足歩行だし、すぐ汚れるのに……。
この後、小便を希釈するのに使ったお茶を補充しようとして、この手のノリの、よくわからない冒険がだらだらとつづいていく。
そして目覚めた私は、自分の脳みそはこんなレベルなのかと、げっそりしながらテンションの低い朝を迎えるのだった。
仕事が風雲急を告げている昨夜でさえ、こんなの↓。
猫の小便が手に入った。
評判の大猫のもの。
「ネズミ除けには、猫の小水が一番よ」が口癖の近所のオバさんに、高く売りつけてやろうとほくほく。
その前に、効き目を確認しておくか。小便をお茶で希釈し、大の字になって寝ているネズミの周辺に振りかけてみた。
やがてネズミは目を開け、のっそりと立ち去っていった。「俺がここで寝なきゃいけない理由はないんだよな」とかなんとか、言い訳がましく呟きながら。
効果はあったのか、なかったのか。それより、ネズミはなぜ白手袋をしているのだろう。四足歩行だし、すぐ汚れるのに……。
この後、小便を希釈するのに使ったお茶を補充しようとして、この手のノリの、よくわからない冒険がだらだらとつづいていく。
そして目覚めた私は、自分の脳みそはこんなレベルなのかと、げっそりしながらテンションの低い朝を迎えるのだった。
見た夢
「20111117木.txt」というファイルがデスクトップにあった。
ナニコレ? と開いてみたら、「見た夢」とタイトルが。
仕事に関係する夢を見たので、何かの参考になるかもととっさにメモったみたい。
以下内容。
見た夢
坂本浩一組の撮影が難航中というので現場に。アクションが激しすぎて、ベトナム戦争のような内容になってしまった。
そこに雨宮慶太監督が慰問に来た。「『VSギャバン』の脚本は面白かった。それにひきかえ、今度の春のやつはどうなんだ」と攻めてくる。趣旨がまったく違います、と反論しかけたところに、ファンの女性たちが押し寄せ、監督がサイン攻めに。よくわからんが、乗じてサインをもらうことにする。
……ナニコレ?
ナニコレ? と開いてみたら、「見た夢」とタイトルが。
仕事に関係する夢を見たので、何かの参考になるかもととっさにメモったみたい。
以下内容。
見た夢
坂本浩一組の撮影が難航中というので現場に。アクションが激しすぎて、ベトナム戦争のような内容になってしまった。
そこに雨宮慶太監督が慰問に来た。「『VSギャバン』の脚本は面白かった。それにひきかえ、今度の春のやつはどうなんだ」と攻めてくる。趣旨がまったく違います、と反論しかけたところに、ファンの女性たちが押し寄せ、監督がサイン攻めに。よくわからんが、乗じてサインをもらうことにする。
……ナニコレ?
2011年12月27日
著作権と書いて、英国王と読む
酔っぱらってヤケクソで書く。
Winny 作者の無罪が確定したり、SARVH VS 東芝の2審が東芝勝訴したり、本多監督の遺族が東宝を訴えたり……と、イベントつづきの著作権方面。
そしてついに、いわゆる《自炊》代行業者を、東野圭吾さんら作家陣が訴えた。
ホットな話題だが、もしもわが国が法治国家なら、自炊代行業者とやらが複製権&同一性保持権を侵害しているのは明白なので、裁判のゆくえに興味はない。
興味があるのは、わが国が法治国家とは思えないことと、この事例(9月に小説家陣と出版社が質問状を送付して以来)に対する意見の多くが、著作権者側であれユーザ側であれ、法律論ではなく、感情論を持ちだしがちなことだ。
ひとつには、著作権というものの「よくわからなさ」を如実に物語っていること。
またもうひとつには、この国の特殊性がよく出ていること。
この機会に、《著作権》というものの本質に切り込む議論が深まってくれればいいと思っている。
そもそも。
著作権をめぐる議論は、百家争鳴するばかりで、ちっとも実りを生まない。
著作権法というもの自体が、何に立脚するのか? という共通認識が存在したためしがない。
著作権法とは、著作権者の権利を保障する法律なのか、それとも著作権者の権利を制限する法律なのか?
保障するにせよ制限するにせよ、何のために、また、どのような裏づけがあってそうするのか?
著作権法が曖昧なのは、条文には書かれていないけれども、裏に「イギリス国王」が存在するから。
と書けないのが、ベルヌ条約ふくめ各国著作権法の限界であると同時に、出発点ではある。
※ 以下(前ブログ同様に)牽強付会の捏造です。実際の歴史は各自調べてください。
かつてイギリスでは、本の出版には、国王の勅許状が必要だった。
政府によって検閲された本だけが、出版を許される。そのかわり、勅許状を得た出版社は独占的権利を得た。
江戸時代の日本ふくめ、中世社会ではあまねく見られる状況。
アメリカの独立が、この状況に風穴を開けた。
英国王の勅許状はもう要らない。アメリカの出版社は、自由気ままにイギリスの書物の(いまでいう)海賊版を出版しはじめた。
最初はそれでよかった。
だが、アメリカでも書物が書かれはじめたとたん、困ったことになる。優れた書物であればあるほど、たちまちコピー品が溢れかえり、正規品を駆逐した。しかもアメリカだけでなく、英連邦すべて(≒全世界)がアメリカの敵に回った。
しかし、いまさら英国王の勅許頼みに戻るわけにもいかない。
そこで、英国王にかわる権威として、合衆国憲法がつくられた。
著作物(と発明)は、憲法によって守られる。ただし永代ではない。なぜなら、英国王が与える勅許のおよぶ権威は、国王一代限りなのだから。
ここに、保障であり規制でもあるという両義性が生まれた。
つまり。
著作権(と特許)という、権利のような規制のような、両義的な概念が発明されたのは、英国王の権威の代替品としてである。何のためにそれがあるのかと問われたら、英国王のためだとしか言いようがない。
そうは条文には書けないのだが、しかし、曖昧模糊としているがゆえに、それは普遍性を得た。
日本のように、ほんらい西側自由世界とは真逆の社会制度にもとづく社会でも、よく機能した。
……と述べた、著作権の発生の経緯が、歴史的に正しいかどうかはともあれ、著作権法をめぐる両義性(保障or規制)を越え、法解釈論を越えて、《そもそも論》を語れる機運が、わが国に訪れている。
この国は、巷間言われるような法治国家ではない。
もともと君主や宗教の権威にそれほど重きを置いていなかったのかどうか、その代替としての法律にも、誰も重きを置かない。著作権にかぎらず、あらゆる裁判をめぐって、法に則しているかどうかより、「社会通念に照らしてどうか」で評価されてしまう。
法相ですら、法が求める死刑執行をしたりしなかったりする国だ。
「悪法も法である」と毒杯をあおるソクラテスは、日本人からは生まれない。
そのかわり、神の裁決の代替としての裁判制度や、絶対君主の代替としての法律というような、《代替》ではない、本質としての法律論や裁判論が、この国からは生まれ得る。
あるいは、この国からしか生まれえない。
出発点は、感情論でも何でも構わない。
法や裁判をも越え、本質に切り込まねばならない。
この先の答えを導き出せるのは、わが国しかない。自炊業者のような、あきらかにブラックな違法行為も《グレー》とみなされ、議論の対象になってしまう国だ。
より活発な議論を期待するしだいである。
Winny 作者の無罪が確定したり、SARVH VS 東芝の2審が東芝勝訴したり、本多監督の遺族が東宝を訴えたり……と、イベントつづきの著作権方面。
そしてついに、いわゆる《自炊》代行業者を、東野圭吾さんら作家陣が訴えた。
ホットな話題だが、もしもわが国が法治国家なら、自炊代行業者とやらが複製権&同一性保持権を侵害しているのは明白なので、裁判のゆくえに興味はない。
興味があるのは、わが国が法治国家とは思えないことと、この事例(9月に小説家陣と出版社が質問状を送付して以来)に対する意見の多くが、著作権者側であれユーザ側であれ、法律論ではなく、感情論を持ちだしがちなことだ。
ひとつには、著作権というものの「よくわからなさ」を如実に物語っていること。
またもうひとつには、この国の特殊性がよく出ていること。
この機会に、《著作権》というものの本質に切り込む議論が深まってくれればいいと思っている。
そもそも。
著作権をめぐる議論は、百家争鳴するばかりで、ちっとも実りを生まない。
著作権法というもの自体が、何に立脚するのか? という共通認識が存在したためしがない。
著作権法とは、著作権者の権利を保障する法律なのか、それとも著作権者の権利を制限する法律なのか?
保障するにせよ制限するにせよ、何のために、また、どのような裏づけがあってそうするのか?
著作権法が曖昧なのは、条文には書かれていないけれども、裏に「イギリス国王」が存在するから。
と書けないのが、ベルヌ条約ふくめ各国著作権法の限界であると同時に、出発点ではある。
※ 以下(前ブログ同様に)牽強付会の捏造です。実際の歴史は各自調べてください。
かつてイギリスでは、本の出版には、国王の勅許状が必要だった。
政府によって検閲された本だけが、出版を許される。そのかわり、勅許状を得た出版社は独占的権利を得た。
江戸時代の日本ふくめ、中世社会ではあまねく見られる状況。
アメリカの独立が、この状況に風穴を開けた。
英国王の勅許状はもう要らない。アメリカの出版社は、自由気ままにイギリスの書物の(いまでいう)海賊版を出版しはじめた。
最初はそれでよかった。
だが、アメリカでも書物が書かれはじめたとたん、困ったことになる。優れた書物であればあるほど、たちまちコピー品が溢れかえり、正規品を駆逐した。しかもアメリカだけでなく、英連邦すべて(≒全世界)がアメリカの敵に回った。
しかし、いまさら英国王の勅許頼みに戻るわけにもいかない。
そこで、英国王にかわる権威として、合衆国憲法がつくられた。
著作物(と発明)は、憲法によって守られる。ただし永代ではない。なぜなら、英国王が与える勅許のおよぶ権威は、国王一代限りなのだから。
ここに、保障であり規制でもあるという両義性が生まれた。
つまり。
著作権(と特許)という、権利のような規制のような、両義的な概念が発明されたのは、英国王の権威の代替品としてである。何のためにそれがあるのかと問われたら、英国王のためだとしか言いようがない。
そうは条文には書けないのだが、しかし、曖昧模糊としているがゆえに、それは普遍性を得た。
日本のように、ほんらい西側自由世界とは真逆の社会制度にもとづく社会でも、よく機能した。
……と述べた、著作権の発生の経緯が、歴史的に正しいかどうかはともあれ、著作権法をめぐる両義性(保障or規制)を越え、法解釈論を越えて、《そもそも論》を語れる機運が、わが国に訪れている。
この国は、巷間言われるような法治国家ではない。
もともと君主や宗教の権威にそれほど重きを置いていなかったのかどうか、その代替としての法律にも、誰も重きを置かない。著作権にかぎらず、あらゆる裁判をめぐって、法に則しているかどうかより、「社会通念に照らしてどうか」で評価されてしまう。
法相ですら、法が求める死刑執行をしたりしなかったりする国だ。
「悪法も法である」と毒杯をあおるソクラテスは、日本人からは生まれない。
そのかわり、神の裁決の代替としての裁判制度や、絶対君主の代替としての法律というような、《代替》ではない、本質としての法律論や裁判論が、この国からは生まれ得る。
あるいは、この国からしか生まれえない。
出発点は、感情論でも何でも構わない。
法や裁判をも越え、本質に切り込まねばならない。
この先の答えを導き出せるのは、わが国しかない。自炊業者のような、あきらかにブラックな違法行為も《グレー》とみなされ、議論の対象になってしまう国だ。
より活発な議論を期待するしだいである。
2011年08月24日
【映画】『モンスターズ/地球外生命体』はモンスターでも地球外でもない
最近、何かというとアメリカは宇宙人に攻められる。
終戦直後の日本で、海の向こうから来た巨大な怪獣が首都の中心部を破壊しつくす映画がリアリティを持っていたように、いまのアメリカ人にとって、アメリカとは相容れない何かがアメリカを破壊するというシチュエーションが、リアルな感慨をもたらすのだろう。
そうした映画群は、9・11後に生きるアメリカ人たちの世界観を私たちに伝えてくれてもいる。
(以下ネタバレあります)
たとえば、『SUPER 8/スーパーエイト』(2011)。
スピルバーグ作品へのオマージュに満ちた、ノスタルジックな映画という体裁をとりながら、劇中で少年が出会う宇宙人は『E.T』 (1982)のように米軍から逃げまどうどころか、逆に軍を翻弄して町を破壊しつくす。あまつさえ人を襲っては食糧にする。
そんな人食い凶悪宇宙怪獣に、主人公の少年はひとり心を寄せたりするが、彼は観客に共感してはもらえないだろう。
ここで描かれているのは、ストーリーラインとしては『E.T.』をなぞりながらも、人とは異質で/相互理解なんて不可能な/軍より強力で/生活の中心を直撃して破壊する/凶悪きわまりない──『宇宙戦争』(2005)の宇宙人像である。
スピルバーグもエイブラムスも、どれほど昔を懐かしんでも、もう『未知との遭遇』『E.T.』のころの牧歌的な宇宙人像には戻れない。
それこそスーパー8がディスコンされたように……。
『モンスターズ/地球外生命体』(2010)に登場する凶悪宇宙怪獣も、『宇宙戦争』型の、9・11後のアメリカ的宇宙人像に見える。
少なくとも、アメリカの観客はそう受け入れるだろう。
だが。
中米を占拠した宇宙怪獣は、木に子供を植え、川で育ち、遡上して密林で暮らしている。終盤、アメリカに脱出した主人公たち2人を襲うように見えるが、それは交尾の相手を求め、光に感応していただけだったとわかる(中盤、車列が襲われたときに主人公たちの車だけが助かった理由がそこで判明する)。
彼らは地球の自然に溶け込み、自分たちの生態を営んでいるだけだ。
だが、人間は彼らを敵対視する。それは、彼らがあまりに強大であることと、人間の側に彼らに対する理解が不足しているからなのだ。
主人公たちが滅びたピラミッドの上にのぼり、アメリカ側を見ると、宇宙怪獣の滲出を防ぐため、万里の長城のような巨大な壁を巡らせているのが見える。
“自然”に対して壁を巡らせ、境界を引くのが文明社会である。だが、そうした人為的な境界を、“自然”の側は一顧だにしてくれない。我々から理解し、融合を図らなければいけないのだ。そうでなければ、どんな勇壮な壁をめぐらせたとしても、中米のピラミッドのように、やがては遺跡になってしまうだけだろう。
タイトルこそ『MONSTERS』だが、劇中では徹頭徹尾、creature という言葉が使われる。
もとの意味は「神の被造物」だけれども、最近は creature of nature という言い方を目にすることが多い。人間-神-自然 の3者関係を前提すれば、自然は神により、人間に従属させるために創られたという理解の仕方もできる。だが、ここから神というファクターを外すと、自然が人間に従属してくれる理由がなくなる。人間の側から折れないかぎり、自然は人間に手を差しのべてはくれない。
中米〜アメリカを舞台にしていても、『モンスターズ/地球外生命体』はイギリス映画。
監督ギャレス・エドワーズもイギリス人。
ここ10年の、一連のポスト9・11アメリカン宇宙人映画は、アメリカ人 VS 非アメリカ人の、《文化の衝突》的な相容れなさを描いてきた。彼らは私たちアメリカンの生活の根源を破壊するが、けっして理解できない。ということは、私たちアメリカンは考え方を改める必要はない。なぜなら、アメリカンが非アメリカンの考え方は理解できないのだから……という《壁》をめぐらせているのが、9・11後のアメリカ人である。
その《壁》の意味を、あるいは二項対立の項の立て方を、大西洋の向こうから問うているイギリス人がいる。でも、けっしてアメリカ人には理解できない。
理解しなくて済むために、《壁》をつくっているのだから。
せめて日本人は理解しなければいけない。
アメリカ人は、想定外のものは敵とみなし、思考停止する。日本人は、想定外のものは「存在しない」とみなし、思考停止する。
この映画の字幕で、“infected zone”を「汚染地域」ではなく、「危険地帯」と超訳する配慮がなされているように。
だが、アメリカにとって9・11は過去のトラウマであったとしても、日本にとって3・11は現在進行形の事象である。
私たちは、思考停止してはおれない。
《壁》をめぐらせて事足れりとするわけにはいかないのである。
-------
高寺Pのオーダーで、Twitter のつぶやきを「批評」っぽく敷衍してみました。
終戦直後の日本で、海の向こうから来た巨大な怪獣が首都の中心部を破壊しつくす映画がリアリティを持っていたように、いまのアメリカ人にとって、アメリカとは相容れない何かがアメリカを破壊するというシチュエーションが、リアルな感慨をもたらすのだろう。
そうした映画群は、9・11後に生きるアメリカ人たちの世界観を私たちに伝えてくれてもいる。
(以下ネタバレあります)
たとえば、『SUPER 8/スーパーエイト』(2011)。
スピルバーグ作品へのオマージュに満ちた、ノスタルジックな映画という体裁をとりながら、劇中で少年が出会う宇宙人は『E.T』 (1982)のように米軍から逃げまどうどころか、逆に軍を翻弄して町を破壊しつくす。あまつさえ人を襲っては食糧にする。
そんな人食い凶悪宇宙怪獣に、主人公の少年はひとり心を寄せたりするが、彼は観客に共感してはもらえないだろう。
ここで描かれているのは、ストーリーラインとしては『E.T.』をなぞりながらも、人とは異質で/相互理解なんて不可能な/軍より強力で/生活の中心を直撃して破壊する/凶悪きわまりない──『宇宙戦争』(2005)の宇宙人像である。
スピルバーグもエイブラムスも、どれほど昔を懐かしんでも、もう『未知との遭遇』『E.T.』のころの牧歌的な宇宙人像には戻れない。
それこそスーパー8がディスコンされたように……。
『モンスターズ/地球外生命体』(2010)に登場する凶悪宇宙怪獣も、『宇宙戦争』型の、9・11後のアメリカ的宇宙人像に見える。
少なくとも、アメリカの観客はそう受け入れるだろう。
だが。
中米を占拠した宇宙怪獣は、木に子供を植え、川で育ち、遡上して密林で暮らしている。終盤、アメリカに脱出した主人公たち2人を襲うように見えるが、それは交尾の相手を求め、光に感応していただけだったとわかる(中盤、車列が襲われたときに主人公たちの車だけが助かった理由がそこで判明する)。
彼らは地球の自然に溶け込み、自分たちの生態を営んでいるだけだ。
だが、人間は彼らを敵対視する。それは、彼らがあまりに強大であることと、人間の側に彼らに対する理解が不足しているからなのだ。
主人公たちが滅びたピラミッドの上にのぼり、アメリカ側を見ると、宇宙怪獣の滲出を防ぐため、万里の長城のような巨大な壁を巡らせているのが見える。
“自然”に対して壁を巡らせ、境界を引くのが文明社会である。だが、そうした人為的な境界を、“自然”の側は一顧だにしてくれない。我々から理解し、融合を図らなければいけないのだ。そうでなければ、どんな勇壮な壁をめぐらせたとしても、中米のピラミッドのように、やがては遺跡になってしまうだけだろう。
タイトルこそ『MONSTERS』だが、劇中では徹頭徹尾、creature という言葉が使われる。
もとの意味は「神の被造物」だけれども、最近は creature of nature という言い方を目にすることが多い。人間-神-自然 の3者関係を前提すれば、自然は神により、人間に従属させるために創られたという理解の仕方もできる。だが、ここから神というファクターを外すと、自然が人間に従属してくれる理由がなくなる。人間の側から折れないかぎり、自然は人間に手を差しのべてはくれない。
中米〜アメリカを舞台にしていても、『モンスターズ/地球外生命体』はイギリス映画。
監督ギャレス・エドワーズもイギリス人。
ここ10年の、一連のポスト9・11アメリカン宇宙人映画は、アメリカ人 VS 非アメリカ人の、《文化の衝突》的な相容れなさを描いてきた。彼らは私たちアメリカンの生活の根源を破壊するが、けっして理解できない。ということは、私たちアメリカンは考え方を改める必要はない。なぜなら、アメリカンが非アメリカンの考え方は理解できないのだから……という《壁》をめぐらせているのが、9・11後のアメリカ人である。
その《壁》の意味を、あるいは二項対立の項の立て方を、大西洋の向こうから問うているイギリス人がいる。でも、けっしてアメリカ人には理解できない。
理解しなくて済むために、《壁》をつくっているのだから。
せめて日本人は理解しなければいけない。
アメリカ人は、想定外のものは敵とみなし、思考停止する。日本人は、想定外のものは「存在しない」とみなし、思考停止する。
この映画の字幕で、“infected zone”を「汚染地域」ではなく、「危険地帯」と超訳する配慮がなされているように。
だが、アメリカにとって9・11は過去のトラウマであったとしても、日本にとって3・11は現在進行形の事象である。
私たちは、思考停止してはおれない。
《壁》をめぐらせて事足れりとするわけにはいかないのである。
-------
高寺Pのオーダーで、Twitter のつぶやきを「批評」っぽく敷衍してみました。
2011年06月26日
阿部作二さんのこと (1)
阿部さんが亡くなって、1ヶ月が経とうとしている。
この間、何度となく筆をとりかけては果たせずにいた。私に阿部さんについて語る資格などあるはずもなく、また私自身、阿部さんを失った現実を受け止めきれていない。そもそも、「音響効果」という仕事を説明する言葉の持ち合わせがない。どう語っても誤解を招かずにはおかない。
それでも、斯界の大先輩について少しでも語り継ぐのは後輩の責任だとも思う。
せめて阿部さんがどんな仕事をしたかという客観ではなく、私個人が、阿部さんの仕事ぶりに接してどう感じたかという主観を、1つ2つ書きとめておきたい。
私が阿部さんに初めてお会いしたのは、1990年代のはじめ、戦隊シリーズをつうじてだった。
『鳥人戦隊ジェットマン』『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』……
私はただの新入社員。方や、テレビ草創期から東映大泉を支えるベテラン音響効果技師。
しかし当時の私は、先達に会って首を垂れる殊勝な心がけはカケラもない。むしろ「まず旧世代を一掃することから始める」とすら思い込んでいる生意気盛り。
そんなクソ生意気な人間が、阿部さんの仕事をどう見たか、という話である。
このころの戦隊シリーズは、16ミリフィルム撮影/サイレント───いわゆるオールアフレコスタイルで制作されていた。セリフを撮影現場では録らず、後日スタジオで収録する。当然ながらセリフにとどまらず、効果音もアテなければいけない。人の足音やドアの開け閉め、街ノイズといった日常音から、巨大ロボの合体音まで、あらゆる音響効果を手がけていたのが阿部さんだった。
「オールアフレコ」とは呼んでも、「オール効果音」とは誰も呼ばない。
音響効果が下に見られているからではない。アフレコは「みんな」の作業だが、効果音は「ひとり」だからだ。アフレコは、キャストや監督をはじめ、現場のセリフを記録するスクリプター、作業を仕切る演出部といった多数の人が入り乱れ、時として撮影よりも注目を浴びる一大イベント。一方、よくも悪くも効果音は、音響効果技師ひとりの世界である。
なぜ「よくも悪くも」かは後で述べる。
当時の音の仕上げには、シネテープという、16ミリフィルムとそっくり同じ形をした磁気テープが使われていた。これを、映像のフィルム(ラッシュプリント)といっしょに専用の映写機に「よーいドン」でかけることによって、映像と音を同期させる仕組みである。
ラッシュプリントの効果音が入る箇所(たとえば爆発の瞬間のコマ)に、あらかじめ、デルマ(ダーマトグラフ)と呼ばれる油性色鉛筆で印をつけておく。それを映写しながら、「よーいドン」で6ミリ幅のオープンリールデッキを操作し、絵に合わせて効果音をシネテープに録音していくのが阿部さんの作業だ。
オープンリールデッキは何台もあり、タイミングによって使い分けたり、テープを掛け替えたりする。足音やアクション音のように連続する音は、あらかじめそれっぽく編集するが、映写と合わせると当然タイミングがズレる。それを、テープをハサミで切った貼ったして調節し、絵にすり寄せていく。
よく言えば職人芸の世界。
だが、当時の私には、まったくよくは思えなかった。
このころ、ビデオ作品の MA スタジオ等ではMTR(マルチトラックレコーダ)が普及しつつあり、16や32といった数のトラックを駆使して、緻密に調整することができるようになっていた。
阿部さんが何台ものデッキをガチャガチャいじったり、テープを切った貼ったしている姿は、いかにも職人っぽく見えたとしても、「緻密さ」からはほど遠い。外ではタイムコードで絵と音を管理し、「この音、5フレ遅らせて」とかフレーム単位で微調整しているというのに、色鉛筆でフィルムにバッテンを描いては、デッキをガチャガチャ……。
適当にもほどがある。はっきり言って、アナログどころかアナクロだ。
その上、やっつけ仕事の温床になる。音響効果は孤独だ。だが、そのぶん自由だ。誰にも気がねせず、手抜きもできる。なにしろデッキガチャガチャの世界で、タイミングなんか絶対に合うはずもない。適当にやったってバレやしない。
こうした、旧態依然たる制作体制の上に旧来のスタッフがあぐらをかき、十年一日のごとく、アバウトに仕事をこなしている───そんな状況を打破するのが、自分の使命かもしれないとすら思っていた。
音響効果をめぐる作業に関しては当時のフィルム仕上げ一般の話でもあり、とくに阿部さんが、というわけではないのけれども、そうした《旧世代》の1人とみなしていたことを告白する。
その認識が大間違いだと知るのに、そう長い時間はかからなかった。
あるとき。
番組の放送を見ていて(当時は金曜17:30〜)、かすかな違和感を感じた。
「何か変だ!」
と、オフィスの誰に訴えても「そう?」という反応しかない。しかし、たまたま通りかかった阿部さんをつかまえて見てもらったら、一瞥して言うことには、
「音が絵に2コマ遅れてるね」
当時、完成作品としてフィルム(絵)とシネテープ(音)を納品し、局側で絵と音を合わせ直して放送していた。その同期が、たかが2コマ(0.08秒)くらいズレたところで、視聴者もスタッフも気づかない。
ただひとり、阿部さんを除いて……。
検証作業が行なわれ、たしかに、2コマズレていたことが確認された。
私は思い知った。
「デルマでバッテン、デッキをガチャガチャ」がアバウトだなんて、思い違いにも程があった。
ちょっと考えれば思いいたるはずだった。たった1コマしか映し出されない色鉛筆のマーキングに、リアルタイムで音を合わせる作業の緻密さを。
改めて阿部さんの仕事ぶりを拝見すると、適当にガチャガチャやってるようにしか見えない阿部さんのデッキ操作には、1コマの狂いもなかった。私のような素人目に、1コマは一瞬でしかないが、阿部さんにとっては、それに合わせてジャストミートできる十分な時間だった。しかも、傍目にはアバウトにさえ見える余裕まで持って。
職人芸と言って済ませられるレベルではない。阿部さんの時間感覚と技術は、そこまで研ぎすまされていた。
そうした事実を突きつけられ、生意気盛りの私も、阿部さんの凄みの前にひれ伏した。
だが。
この《事件》は後々まで尾を引く。
この出来事は、局においてフィルムを扱う技術がもはや廃れているという事実を突きつけると同時に、「局にフィルムを納品すること自体が時代遅れだ」という主張を活発化させる引き金の役割を果たした。
その流れはやがて、阿部さんの存在意義を揺るがせる風評を形づくることになる。
ちなみに、デッキガチャガチャ(業界用語で「ポン出し」という)対MTR(マルチトラックレコーダ)の戦いには、阿部さんのあずかり知らぬ場所でも場外乱闘があった。(3) があったら書くかもしれないので備忘としてメモしておきます。
この間、何度となく筆をとりかけては果たせずにいた。私に阿部さんについて語る資格などあるはずもなく、また私自身、阿部さんを失った現実を受け止めきれていない。そもそも、「音響効果」という仕事を説明する言葉の持ち合わせがない。どう語っても誤解を招かずにはおかない。
それでも、斯界の大先輩について少しでも語り継ぐのは後輩の責任だとも思う。
せめて阿部さんがどんな仕事をしたかという客観ではなく、私個人が、阿部さんの仕事ぶりに接してどう感じたかという主観を、1つ2つ書きとめておきたい。
私が阿部さんに初めてお会いしたのは、1990年代のはじめ、戦隊シリーズをつうじてだった。
『鳥人戦隊ジェットマン』『恐竜戦隊ジュウレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』……
私はただの新入社員。方や、テレビ草創期から東映大泉を支えるベテラン音響効果技師。
しかし当時の私は、先達に会って首を垂れる殊勝な心がけはカケラもない。むしろ「まず旧世代を一掃することから始める」とすら思い込んでいる生意気盛り。
そんなクソ生意気な人間が、阿部さんの仕事をどう見たか、という話である。
このころの戦隊シリーズは、16ミリフィルム撮影/サイレント───いわゆるオールアフレコスタイルで制作されていた。セリフを撮影現場では録らず、後日スタジオで収録する。当然ながらセリフにとどまらず、効果音もアテなければいけない。人の足音やドアの開け閉め、街ノイズといった日常音から、巨大ロボの合体音まで、あらゆる音響効果を手がけていたのが阿部さんだった。
「オールアフレコ」とは呼んでも、「オール効果音」とは誰も呼ばない。
音響効果が下に見られているからではない。アフレコは「みんな」の作業だが、効果音は「ひとり」だからだ。アフレコは、キャストや監督をはじめ、現場のセリフを記録するスクリプター、作業を仕切る演出部といった多数の人が入り乱れ、時として撮影よりも注目を浴びる一大イベント。一方、よくも悪くも効果音は、音響効果技師ひとりの世界である。
なぜ「よくも悪くも」かは後で述べる。
当時の音の仕上げには、シネテープという、16ミリフィルムとそっくり同じ形をした磁気テープが使われていた。これを、映像のフィルム(ラッシュプリント)といっしょに専用の映写機に「よーいドン」でかけることによって、映像と音を同期させる仕組みである。
ラッシュプリントの効果音が入る箇所(たとえば爆発の瞬間のコマ)に、あらかじめ、デルマ(ダーマトグラフ)と呼ばれる油性色鉛筆で印をつけておく。それを映写しながら、「よーいドン」で6ミリ幅のオープンリールデッキを操作し、絵に合わせて効果音をシネテープに録音していくのが阿部さんの作業だ。
オープンリールデッキは何台もあり、タイミングによって使い分けたり、テープを掛け替えたりする。足音やアクション音のように連続する音は、あらかじめそれっぽく編集するが、映写と合わせると当然タイミングがズレる。それを、テープをハサミで切った貼ったして調節し、絵にすり寄せていく。
よく言えば職人芸の世界。
だが、当時の私には、まったくよくは思えなかった。
このころ、ビデオ作品の MA スタジオ等ではMTR(マルチトラックレコーダ)が普及しつつあり、16や32といった数のトラックを駆使して、緻密に調整することができるようになっていた。
阿部さんが何台ものデッキをガチャガチャいじったり、テープを切った貼ったしている姿は、いかにも職人っぽく見えたとしても、「緻密さ」からはほど遠い。外ではタイムコードで絵と音を管理し、「この音、5フレ遅らせて」とかフレーム単位で微調整しているというのに、色鉛筆でフィルムにバッテンを描いては、デッキをガチャガチャ……。
適当にもほどがある。はっきり言って、アナログどころかアナクロだ。
その上、やっつけ仕事の温床になる。音響効果は孤独だ。だが、そのぶん自由だ。誰にも気がねせず、手抜きもできる。なにしろデッキガチャガチャの世界で、タイミングなんか絶対に合うはずもない。適当にやったってバレやしない。
こうした、旧態依然たる制作体制の上に旧来のスタッフがあぐらをかき、十年一日のごとく、アバウトに仕事をこなしている───そんな状況を打破するのが、自分の使命かもしれないとすら思っていた。
音響効果をめぐる作業に関しては当時のフィルム仕上げ一般の話でもあり、とくに阿部さんが、というわけではないのけれども、そうした《旧世代》の1人とみなしていたことを告白する。
その認識が大間違いだと知るのに、そう長い時間はかからなかった。
あるとき。
番組の放送を見ていて(当時は金曜17:30〜)、かすかな違和感を感じた。
「何か変だ!」
と、オフィスの誰に訴えても「そう?」という反応しかない。しかし、たまたま通りかかった阿部さんをつかまえて見てもらったら、一瞥して言うことには、
「音が絵に2コマ遅れてるね」
当時、完成作品としてフィルム(絵)とシネテープ(音)を納品し、局側で絵と音を合わせ直して放送していた。その同期が、たかが2コマ(0.08秒)くらいズレたところで、視聴者もスタッフも気づかない。
ただひとり、阿部さんを除いて……。
検証作業が行なわれ、たしかに、2コマズレていたことが確認された。
私は思い知った。
「デルマでバッテン、デッキをガチャガチャ」がアバウトだなんて、思い違いにも程があった。
ちょっと考えれば思いいたるはずだった。たった1コマしか映し出されない色鉛筆のマーキングに、リアルタイムで音を合わせる作業の緻密さを。
改めて阿部さんの仕事ぶりを拝見すると、適当にガチャガチャやってるようにしか見えない阿部さんのデッキ操作には、1コマの狂いもなかった。私のような素人目に、1コマは一瞬でしかないが、阿部さんにとっては、それに合わせてジャストミートできる十分な時間だった。しかも、傍目にはアバウトにさえ見える余裕まで持って。
職人芸と言って済ませられるレベルではない。阿部さんの時間感覚と技術は、そこまで研ぎすまされていた。
そうした事実を突きつけられ、生意気盛りの私も、阿部さんの凄みの前にひれ伏した。
だが。
この《事件》は後々まで尾を引く。
この出来事は、局においてフィルムを扱う技術がもはや廃れているという事実を突きつけると同時に、「局にフィルムを納品すること自体が時代遅れだ」という主張を活発化させる引き金の役割を果たした。
その流れはやがて、阿部さんの存在意義を揺るがせる風評を形づくることになる。
(2) につづく
ちなみに、デッキガチャガチャ(業界用語で「ポン出し」という)対MTR(マルチトラックレコーダ)の戦いには、阿部さんのあずかり知らぬ場所でも場外乱闘があった。(3) があったら書くかもしれないので備忘としてメモしておきます。
2011年06月22日
【映画】『ジェリーフィッシュ』(2007 イスラエル/フランス)は語れない
BS11で放送されていたのを観た。
メインヒロインが(群像劇なのだ)、海から現れた浮き輪の少女と出会うところから、映画のワールドが始まる。少女は喋らず、身元は不明。だが決して浮き輪を手放そうとはしない。ヒロインは2日間だけ、少女を預かることになるのだが……。
といった滑り出し。
なかなかキャッチーだ。
だが、この浮き輪少女の謎を追ったり、交流を描いたりとかはまったくない。
この映画の軸となっているのは、そうしたストーリーではなく、どうやら全編を貫く「水」モチーフなのだ。
海辺の町テルアビブ。海から現れた少女。「クラゲ」。子供に船を買いたい。天井から水漏れ。水没する部屋。「アイスおじさん」。雨。トイレで骨折。カリブ海のつもりが、窓から海が見えないホテルの部屋は下水のニオイ。引越トラックのペイント……
繰り返し繰り返し、執拗なまでに、水のモチーフが現れる。
浮き輪少女は、ヒロインの幼児体験に根ざした心象風景かもしれないし、そうではないかもしれない。
それより重要なのは、少女もまた、映画全体に通底する水モチーフを構成する要素だということなのだ。
『2001年宇宙の旅』(1968)は、食事についての映画だ。
大昔、『2001』の同人誌(!)を買ったら、そんな文章が載っていた。アメリカの女子大生が書いた卒論の抜粋だという。おそらく当時の『2001』業界(?)でそれなりに話題になっていたからこそ、日本のファンの目にもとまり、同人誌に引用されることになったのだろう。
言われてみれば、たしかにそうだ。食事の映画、とまで言い切れるかどうかはともかく、食事シーンを抜きに『2001』を解釈できないのは間違いない。
『ジェリーフィッシュ』も、そんなような映画だ。
水モチーフについて語らずして、ストーリーがどうとか言ったところで、印象批評にしかならないだろう。
つまり。
私は、『ジェリーフィッシュ』について語ることができない。
水モチーフか──ということまでは気づいても、そこにどういう意味があるのだか、さっぱり見当もつかない。
メインヒロインが(群像劇なのだ)、海から現れた浮き輪の少女と出会うところから、映画のワールドが始まる。少女は喋らず、身元は不明。だが決して浮き輪を手放そうとはしない。ヒロインは2日間だけ、少女を預かることになるのだが……。
といった滑り出し。
なかなかキャッチーだ。
だが、この浮き輪少女の謎を追ったり、交流を描いたりとかはまったくない。
この映画の軸となっているのは、そうしたストーリーではなく、どうやら全編を貫く「水」モチーフなのだ。
海辺の町テルアビブ。海から現れた少女。「クラゲ」。子供に船を買いたい。天井から水漏れ。水没する部屋。「アイスおじさん」。雨。トイレで骨折。カリブ海のつもりが、窓から海が見えないホテルの部屋は下水のニオイ。引越トラックのペイント……
繰り返し繰り返し、執拗なまでに、水のモチーフが現れる。
浮き輪少女は、ヒロインの幼児体験に根ざした心象風景かもしれないし、そうではないかもしれない。
それより重要なのは、少女もまた、映画全体に通底する水モチーフを構成する要素だということなのだ。
『2001年宇宙の旅』(1968)は、食事についての映画だ。
大昔、『2001』の同人誌(!)を買ったら、そんな文章が載っていた。アメリカの女子大生が書いた卒論の抜粋だという。おそらく当時の『2001』業界(?)でそれなりに話題になっていたからこそ、日本のファンの目にもとまり、同人誌に引用されることになったのだろう。
言われてみれば、たしかにそうだ。食事の映画、とまで言い切れるかどうかはともかく、食事シーンを抜きに『2001』を解釈できないのは間違いない。
『ジェリーフィッシュ』も、そんなような映画だ。
水モチーフについて語らずして、ストーリーがどうとか言ったところで、印象批評にしかならないだろう。
つまり。
私は、『ジェリーフィッシュ』について語ることができない。
水モチーフか──ということまでは気づいても、そこにどういう意味があるのだか、さっぱり見当もつかない。
2011年05月14日
【映画】邦画『アバター』と橋本愛
映画の価値とは何だろう、と考えることがある。
映画についての言説は、宣伝チラシやレビューを問わず、「あらすじ」が先頭に来ることが多い。
だが、映画の本質がストーリーにあるはずがない。
ストーリーであれば、小説やコミックはもちろん、朗読や講談や紙芝居の方が、よほど深く掘り下げて描ける。しかし、朗読や講読や紙芝居はマスメディアとしては駆逐され、映画は生き残った。ストーリーは映画を構成する大事な要素のひとつだけれども、最も大事というわけではない。
それを証明する映画のひとつに出会った。
『アバター』……興行成績の世界記録を更新した、キャメロン監督の3D映画のアレではなく、山田悠介原作・和田篤司監督・橋本愛主演のソレである。
観客は、私を入れて2人だけだった。さもあらん。観に行った私にしてからが、その存在すら知らなかった。
一般的には無名でも、知る人ぞ知る作品というのはある。しかしこれは、知られざる名作というより、知られざる駄作。誰の話題にのぼることもないまま、このまま埋もれていくべき作品だ。
だが、この映画の価値は、主演の橋本愛にある。
そして、その失敗も。
橋本愛の存在は、ストーリーとは矛盾する。
ブサイクな女の子が、ケータイサイトのアバターにハマり、やがてアバターそっくりに整形までして、現実から遊離していくというサスペンス。そうしたストーリーはあるものの、主人公を橋本愛が演じることにより、ストーリー上の設定がまったく伝わらなくなった。
同じ役者が、整形前/整形後を演じる無理を糊塗するために、ヘア・メイクを極端に変えている。にもかかわらず変わりばえがしない。
カメラがずっと、橋本愛を魅力的にとらえようとしているからだ。
設定やメイクがどうあれ、カメラが橋本愛を魅力的だと思っているその距離感が変わらない。カメラは、設定より橋本、ストーリーより橋本をとらえようとした。
ストーリーを描くためであれば大失敗。
だが、映画とは、そういうことだと思う。
女優リリアン・ギッシュがあまりに魅力的で、カメラは彼女に近づきたくなった。
被写体との距離を縮めるためには、技術的なハードルがいっぱいあった。新しいレンズを開発し、フォーカス専用のスタッフをもうけ、カメラはじりじりとギッシュに近づいていった。
《クローズアップ》という演出技法が誕生した瞬間……。
映画史に刻まれている伝説の一つ。
ストーリーとか芝居のスキルとかではなく、主役が魅力的かどうか。
カメラが、あらゆる努力も惜しまず、主役との距離を縮めたいかどうか。
それが、映画の価値のひとつなのだ。
「『アバター』の橋本愛は観るに値する」
───そう言えるだけで『アバター』は、じつに映画的な映画なのだと思う。
映画についての言説は、宣伝チラシやレビューを問わず、「あらすじ」が先頭に来ることが多い。
だが、映画の本質がストーリーにあるはずがない。
ストーリーであれば、小説やコミックはもちろん、朗読や講談や紙芝居の方が、よほど深く掘り下げて描ける。しかし、朗読や講読や紙芝居はマスメディアとしては駆逐され、映画は生き残った。ストーリーは映画を構成する大事な要素のひとつだけれども、最も大事というわけではない。
それを証明する映画のひとつに出会った。
『アバター』……興行成績の世界記録を更新した、キャメロン監督の3D映画のアレではなく、山田悠介原作・和田篤司監督・橋本愛主演のソレである。
観客は、私を入れて2人だけだった。さもあらん。観に行った私にしてからが、その存在すら知らなかった。
一般的には無名でも、知る人ぞ知る作品というのはある。しかしこれは、知られざる名作というより、知られざる駄作。誰の話題にのぼることもないまま、このまま埋もれていくべき作品だ。
だが、この映画の価値は、主演の橋本愛にある。
そして、その失敗も。
橋本愛の存在は、ストーリーとは矛盾する。
ブサイクな女の子が、ケータイサイトのアバターにハマり、やがてアバターそっくりに整形までして、現実から遊離していくというサスペンス。そうしたストーリーはあるものの、主人公を橋本愛が演じることにより、ストーリー上の設定がまったく伝わらなくなった。
同じ役者が、整形前/整形後を演じる無理を糊塗するために、ヘア・メイクを極端に変えている。にもかかわらず変わりばえがしない。
カメラがずっと、橋本愛を魅力的にとらえようとしているからだ。
設定やメイクがどうあれ、カメラが橋本愛を魅力的だと思っているその距離感が変わらない。カメラは、設定より橋本、ストーリーより橋本をとらえようとした。
ストーリーを描くためであれば大失敗。
だが、映画とは、そういうことだと思う。
女優リリアン・ギッシュがあまりに魅力的で、カメラは彼女に近づきたくなった。
被写体との距離を縮めるためには、技術的なハードルがいっぱいあった。新しいレンズを開発し、フォーカス専用のスタッフをもうけ、カメラはじりじりとギッシュに近づいていった。
《クローズアップ》という演出技法が誕生した瞬間……。
映画史に刻まれている伝説の一つ。
ストーリーとか芝居のスキルとかではなく、主役が魅力的かどうか。
カメラが、あらゆる努力も惜しまず、主役との距離を縮めたいかどうか。
それが、映画の価値のひとつなのだ。
「『アバター』の橋本愛は観るに値する」
───そう言えるだけで『アバター』は、じつに映画的な映画なのだと思う。
2011年05月11日
《節電》について (1)
中電・浜岡原発が停止されるとか。
いったん光明が見えかけた東電エリアの電力需給状況は、ふたたび不明朗になった。
政府首脳の、「健康になるためなら死んでもいい」的な対応に対する市民の感想は、昨日や今日のタブロイド紙の見出しがすべてを物語っているのではないか。
(とはいえ、決められたことには全力で従う。そのための秘策も考えてはいる)
2つ思うのは、
みたいな、微妙に意味のないことが起こる。
喫緊の課題は大規模停電の抑止であり、《節電》ではないはずだ。
目的と手段の混同の典型である。
「欲しがりません勝つまでは」式にみんなで努力したとしても、結局停電してしまいました───では、どんな努力も無に帰す。
対応の誤りは人を殺す。停電時に命を落とす人が出るのはもちろんのことながら、需給に余裕がある状況ですら、やみくもな《節電》によって熱中症にかかって亡くなる犠牲者も出てしまうだろう。
「何%」というような《努力目標》を呼びかけること自体が無意味とは言わないが、本当にやるべきなのは、ピークに達しかけたときに、状況をいかに告知し、どういう優先順位で強制力をもって何をカットするかということのはずだ。
ヨーロッパ(とくにイタリア)ではいまでもそうであると聞くような、必要な箇所だけを必要なときだけ照らすスタイルに比べたら、どうしても電力消費は大きくなる。
なぜこうなったかというと、かつて、もっと電力が貧弱で、使える電力は天井から吊した裸電球1個だけ、という時代に「照明は天井に配するもの」という観念が定着してしまったのではないかと思う。裸電球1個を定点に置くことしかできなかったから、全体照明という形を取らざるを得なかった。
時代が移っても、それ以外の照明の配置のありようを検討しないまま、今日までずるずると来てしまったのが、わが国の照明事情ではないだろうか。
今回の事態を奇貨として、照明のありようを再検討してはどうか。
わが国でヨーロッパ式の照明の影響を強く受けているのは、多くの美術館や博物館。ああいうのを目指す。
まずは節電につながる。
たとえば白熱灯や蛍光灯から LED への代替が喧伝されているが、現時点の LED ライトは指向性が強く、全体照明の代替には向かない。だが、個別照明ならばお手の物だ。
それに、全体照明より個別照明のほうが、見ばえ上もカッコいい。どうせ暗くするなら、カッコよく暗くしたいものだ。
いったん光明が見えかけた東電エリアの電力需給状況は、ふたたび不明朗になった。
政府首脳の、「健康になるためなら死んでもいい」的な対応に対する市民の感想は、昨日や今日のタブロイド紙の見出しがすべてを物語っているのではないか。
(とはいえ、決められたことには全力で従う。そのための秘策も考えてはいる)
2つ思うのは、
(1) 「節電」ではなく「ピークカット」では?
「25%削減」「15%削減」といった触れ込みばかりがひとり歩きすると、節電実験、目標に遠く及ばず 「目標15%」実際は5%
http://mytown.asahi.com/areanews/niigata/TKY201104280605.html
みたいな、微妙に意味のないことが起こる。
喫緊の課題は大規模停電の抑止であり、《節電》ではないはずだ。
目的と手段の混同の典型である。
「欲しがりません勝つまでは」式にみんなで努力したとしても、結局停電してしまいました───では、どんな努力も無に帰す。
対応の誤りは人を殺す。停電時に命を落とす人が出るのはもちろんのことながら、需給に余裕がある状況ですら、やみくもな《節電》によって熱中症にかかって亡くなる犠牲者も出てしまうだろう。
「何%」というような《努力目標》を呼びかけること自体が無意味とは言わないが、本当にやるべきなのは、ピークに達しかけたときに、状況をいかに告知し、どういう優先順位で強制力をもって何をカットするかということのはずだ。
(2) 照明のスタイルを見直すべき
わが国のオフィスや家庭は、天井に照明が埋め込まれ、部屋全体を明るく照らす全体照明が主流になっている。ヨーロッパ(とくにイタリア)ではいまでもそうであると聞くような、必要な箇所だけを必要なときだけ照らすスタイルに比べたら、どうしても電力消費は大きくなる。
なぜこうなったかというと、かつて、もっと電力が貧弱で、使える電力は天井から吊した裸電球1個だけ、という時代に「照明は天井に配するもの」という観念が定着してしまったのではないかと思う。裸電球1個を定点に置くことしかできなかったから、全体照明という形を取らざるを得なかった。
時代が移っても、それ以外の照明の配置のありようを検討しないまま、今日までずるずると来てしまったのが、わが国の照明事情ではないだろうか。
今回の事態を奇貨として、照明のありようを再検討してはどうか。
わが国でヨーロッパ式の照明の影響を強く受けているのは、多くの美術館や博物館。ああいうのを目指す。
まずは節電につながる。
たとえば白熱灯や蛍光灯から LED への代替が喧伝されているが、現時点の LED ライトは指向性が強く、全体照明の代替には向かない。だが、個別照明ならばお手の物だ。
それに、全体照明より個別照明のほうが、見ばえ上もカッコいい。どうせ暗くするなら、カッコよく暗くしたいものだ。
